低いところへ降りてゆく

低いところ   川田絢音



ずっと以前からそうしているように
中庭で
男たちがひそひそ話をしていて
天井からねずみの糞が落ちてくる
小さな窓に金網が張ってある
薄闇のほかには 何も見えてこない
かけ布はない
寝床はじっとりと湿っていて
スカーフも衣類も包帯のように体に巻きつけて
あおむけになっている
寄辺のない
これは どこへの途中
ふっと息の仕方が分からなくなる



今日は、枕元に備え付けてある川田絢音詩集「球状の種子」より、「低いところ」という詩を読んでいきたいと思う。
詩の読み取りを書いていくことが何につながるかも分からないが、いいじゃないか、ひとはどのようなことを考えながら詩を読むのか、僕は知りたい。
だから、僕のように、他人の詩の読み方を知りたい、という人だっていてもおかしくないはずだ。
なによりまず、詩のタイトルが不可解でよい。
低いところ、と言われてもどこのことやらまったく判断がつかない。
だからさっそく本文に入ってその真相を突き止めたい、そんな欲求に駆らせられる、さっぱりとしているようでやや屈折感も感じさせる、魅惑的なタイトルである。
ぱっと全体像を眺めたところでは、詩はたかだか二ページ分で、文は中途でたちまち行を変えてゆく形式だから、読みこなすのにそう時間はかからないだろう、「しめた!」と、怠惰な詩の読者であるわれわれは思いながら、おもむろに一行目に取り掛かってゆく。
「ずっと以前からそうしているように」とあって、なるほど、ずっと以前からそうしているのか、と早合点しそうになるのを、「ように」だから、実際はずっと以前からそうしてはいないのかもしれないのだ、と軽率な自分に言い聞かせつつ、二行目に眼を移すと、「中庭で」の三文字で二行目は終わる、中庭でなにか事件があるに違いない、これはいよいよ緊急を要するぞ!喫緊事!喫緊事!心の中の喫緊事コールの鳴り止まぬ中、たちまち三行目にゆくと、「男たちがひそひそ話をしていて」とくる。
たちの悪そうな男たちめ、なにをひそひそ話してやがるんだ、どうせ下世話な話に違いない、女の話か?美人の話か?美人主婦の話か?美人主婦の不倫話か?なんだなんだ?俺も混じりたいぞ!とわくわくしながらの四行目、「天井からねずみの糞が落ちてくる」と語られ、一方的に湧いた下劣な好奇心は宙吊りにされる。
ひそひそ話の件が解決されないままの新しい展開にわれわれの頭は困惑状態に陥る。
中庭の話だったはずなのに、天井?なにごとだ?三行目と四行目の間に、なにが起こったんだ?と吃驚する。
そしてたちどころに三行目に眼を戻し、四行目と照らし合わせるように読み直してみる。「男たちがひそひそ話をしていて」、「天井からねずみの糞が落ちてくる」。待てよ、この一連の語りをしている詩人は、どうやら中庭にはいないらしい、建物の一室から中庭にいる男たちのひそひそ話を見ているんじゃないか、だからひそひそ話の内容は聞こえてこないのだ、とすると、ひそひそ話をしているのを見ている詩人は、盗み見をしていることになり、男たちのひそひそ話を盗み見ている後ろめたさを心の内に潜めているにちがいない。
それを証拠に、見たまえ!詩人を罰するかのように、天井からねずみの糞が落ちてきている、天網恢恢疎にして漏らさず、天は詩人の秘かな罪深き窃視を見逃してはいないぞ!地味な不幸よもっと詩人に舞い降りろ!と思いながらも、もう一度冷静になる必要を感じて読み直す。
「男たちがひそひそ話をしていて」、「天井からねずみの糞が落ちてくる」、この不自然なつながりに、ひそひそ話が、ねずみの糞を降らしている、そんな魔術的な連関の可能性も脳裏をよぎってゆく。
五行目の「小さな窓に金網が張ってある」、は一転してシンプルな報告だが、天井から近い場所にその小窓はあるのだろうか。何のための金網かという疑問を詩人は一瞬でももっただろうか。
視線の行き先が、その都度唐突で動きが読めないが、不安感を覚える視線の揺らぎにただ身をまかせたくもなる。
中庭のひそひそ話、天井から落ちてくるねずみの糞、金網の張ってある小さな窓、目的も意図も抜け落ちているみたいに幽霊のように移ろう視線の先を追いかけるべく、次の行へ。
「薄闇のほかには 何も見えてこない」。
新しい技法が見られる。行を変えるのではなく、一行の中に、ひと文字分の余白を設ける手法。
「薄闇のほかには」と「何も見えてこない」の間に意図的に挿入された一拍は、読者を立ち止まらせる。
薄闇のほかには、とわざわざ立ち止まるのは、詩人が今まで見てきた男たちやねずみの糞や小さな窓の存在の報告を否定することにならないか、嘘になってしまわないか、を検討するための口篭りであり、ほかに見えるものがほんとうにないかと自分に問いかけるための詩人の一拍である。
なるほど、それらは確かに見たが、それらの事物を薄闇の一形態として取りまとめても異存はない、その決意が「何も見えてこない」というやや独断的なことを詩人に言わせしめた。
詩人自身の言葉にも薄闇が宿っていくようだ。
こうしてわれわれ読者の気分も詩人に誘われて薄闇へと入ってゆく。
そこへ来て「かけ布はない」だ。
さっき薄闇のほかには何も見えてこないと、視界に見切りをつけた詩人は、今度はかけ布もない、と悲惨な状況をも報告する。
われわれ読者の気分も沈んでゆくばかりである。薄闇のうえに、かけ布の不在。状況の改善はないのか。救いはやってこないのか。
祈りを込めながら次の行を拝む。「寝床はじっとりと湿っていて」。
祈りは届かなかった。
かけ布の不在のうえに、寝床はじっとりでは、状況の改善がないばかりか、事態は悪化の一途を辿るばかりではないか。生まれてこなければ良かった、もうこれ以上この詩を読んでいても辛いばかりだ、早く閉じてしまおう、と詩を読むのをやめる読者もいるだろう。布団を干せ、などと日常感覚から野暮な忠告を発したくなるやからも居るだろう。
たしかに、事態は深刻だし、「湿っていて」の「いて」のあとには、状況のさらなる悪化を予感させる「いて」だ、たしかに恐ろしい「いて」だが、詩人も頑張っているのだから、読者も頑張らなければならないはずだ。
勇気をもって前へ進め。
「スカーフも衣類も包帯のように体に巻きつけて」。
かけ布は不在だったが、なんだ、スカーフや衣類はちゃんとあるのか、とひと安心するのも束の間、「包帯のように」という比喩に、不穏なものを感じてしまう罠が待っている。詩人自身の比喩的な満身創痍を暗示する。詩人は病気なのではないか。心身ともになにか不穏なものに蝕まれているのではないか。たしかに、気の沈むようなことばかりさっきから起きているし、調子が優れなくなるのも当たり前のことのようにも感じる。
そしてついに、詩人の身体的状況がここで語られる。
「あおむけになっている」、と。
うつぶせではなかった。
確かに、うつぶせでは中庭を覗けないし、天井も見上げられない。だから、うすうす知ってはいた。
「うすうす知ってはいたぞ!」とわれわれは詩集に声をかける。悪い知ったかぶりがまた始まって調子がついた。
大丈夫だ、あと数行だ、読み切れるはずだ。自分を信じろ。
「寄辺のない」
寄辺のない、か。それもうすうすは知っていた。かけ布はない、寝床は湿っている、包帯でぐるぐる巻き、確かに、寄辺なさそうだ、これは詩人自身のことだろう。待て次行。
「これは どこへの途中」。
例の手法の再現。一拍技法。「これは」の「これ」とはなにか、難しい。現時点の詩人を取り巻く、今まで語られたようなあれこれの全体をおそらくは指しているのだろうか。現時点を途中と考えている以上、最終到達点を想定していてしかるべきだが、「どこへの途中」である以上、詩人自身にも不明なのだ。われわれはどこへゆくのか、われわれはなにものなのか、われわれはどこからきたのか、われわれの心のゴーギャンがそうわれわれに問いかける。
あおむけでいることも、ふとなにか放り出されてしまったような不可解な旅路の一環にはちがいない。
「ふっと息の仕方が分からなくなる」
いずれ詩人も、息を完全にしなくなるときがくるだろう。その練習をするかのように、息の根のありかが喉の奥で痙攣するように呼吸を迷子にさせる。
一編の詩を読むだけで、一日分の気力は使い果たされる。
使い果たして詩を読んできたが、結局「低いところ」とは何処なのかは突き止められなかった。
われわれの努力は徒労にすぎなかったのだろうか。
いや、あえて分からないままのほうがいいことだってある。心地よい疲れが眠りを誘う。睡魔が子守唄を囁く。さあ、眠ろう。おやすみ。