2011年の秋風記

 みなさんご存じの通り、茨城県と石川県は地続きでありまして、県境をいくつか飛び越えますと(なんでも、県境は、標準的な歩幅を所持する人間の一歩で容易に越えられるということです)、なんなく行き来できる寸法となっております。
 私の家は茨城県に、Kの家は石川県にありました。まさにご近所なのでありますが、私は自分の気持ちがどうにもこうにもやりきれないことになりますと、ふらふらと歩いてゆくことがあります。
 でたらめに歩いているように見えて、案外、計算しているところもあるのでしょうか、たいがいはKの家に着いてしまいます。私はいつも首もとにぶらさげていない架空の犬笛を吹く真似をします。何度かその無音を鳴り響かせますと、図ったかのように、Kもまたよろよろと、勝手口からラメラメの入ったミュールなどを足につっかけて、現れます。

 「あら、こんにちは」とKは言いました。
 「ごあいさつだね」と私は答えます。慣用句的な意味合いではなく、ただの確認であります。「こんにちは」
 「どうしたの?具合でも悪い?」
 「頭のね」
 「よかった。いつもどおりのようで。ちょっと上がってく?」
 「いや、散歩に行かないか?」
 「そうね。そうしましょう」
 普段は、心の富士樹海を彷徨っているばかりで、なにやら自分自身の喪に服しているような気持ちで、歩いているのですが、Kと一緒に歩いていると、不思議に気分がよく、自然に蔓延るすべてのものに感謝したいような気持ちになります、などと心の中で呟きながらKと歩いている私でありました。
 「そうでしたか」とKは言いました。
 「私の心のナレーションを聞き取って返事をするのは…」
 「よします」

 近頃は、いよいよ、今までにもまして、この世には凶人しかいない、という確信が強まるばかりで、それが世界を見つめる方に原因があるとするならば、私自身のただでさえ薄い正気が失いかかっている証拠に過ぎないのだろうと思います。

 唐突な話ではなはだ恐縮ではありますが、私は以前、友人代表スピーチをしたことがあります。三日三晩考え抜き、失礼にならない程度の時事的な冗談なども加え、自分でもなかなかいいものが書けたと思って、一杯機嫌で読み上げました。新郎新婦にも、そのご家族にも、帰り際に、スピーチの内容を褒めていただきまして、屑のような自分もなかなか捨てたものではないじゃないか、と内心誇りに思いました。何ヶ月か後に、新郎が家を訪ねてきてくれましたが、「一万円しか包んでこない大学時代の先輩がいた」という話を真顔で語る彼に、暗澹たる気持ちになり、俄に興ざめ致しました。自分の時間と金を割いて、後輩のために足を運んでくれたんだ、お前の見栄だのなんだののクソみたいなものの詰まった披露宴、いったい何様のつもりなのか、ドングリ三つ握ってきたっていいんだよ、祝うってそういうもんだろうが、誰もご祝儀の集計を当てにした披露宴なんて開けって頼んでないだろうがクズが、と一瞬の間に酷い罵倒の言葉が流れるように浮かびましたが、にやにやしておりました。私は両親から巻き上げた三万円を包んで、力作のスピーチを懐にして、雀の目糞ほどの小さな勇気を振り絞り、彼の結婚式に参加した光景を思い浮かべて、ただただ自分自身の屑さ加減に嫌気がさしました。彼は、市役所で働いていて、無論、私なんかより遙かに立派な人間だろうと思うのですが、私には世の中のことがさっぱり理解できません。世襲制で何代も続く腐りきった伝統の価値観の奴隷、それはそれなりに辛いこともあるのかもしれません。荒れ果ててしまった自分の精神に気づけないほどに荒廃した心中、お察しします。ご静聴ありがとうございました。

 「そういう話、友達だと思ってるからこそ気安く話してくれただけじゃないの?」とKは感想を述べました。
 「そうなのかもしれません」
 「すぐにあら探しをして、やはりこいつはダメだ、と思うやり口は、いけないと思う」
 「まったく、その通りであります。にゃははでございます」
 私とKと、三十歳を越えた二人に唯一とも言える共通の趣味は、ままごとです。悲惨でしょうか。私には分かりません。もし世の中の一切がごっこ遊びであるなら、ままごとなどわざわざする必要もないのでしょう。
 二人でいるときはいつもいつも、互いに微笑を浮かべています。ひどく、優しい気持ちでいられます。近頃は、棒立ちにへのへのもへじを描いただけの顔にも表情が伺えるようです。私たちの代わりに案山子を二体立てて置いてもらってもよいのです。生きながらに墓標となるなら、案山子の姿がいちばんいいと思います。そのときはどうか、麦わら帽子を被せてください。夏は陽射しがきついでしょうから。