ハイジさんへ

お元気ですか?

死者に対する挨拶としては、皮肉ともウイットとも取れるような、妙な言葉ではあります。

現世の習慣、来世の記憶。

死者の国には朝刊が届きますか。鳥は空を飛びますか。恐竜が水を飲んでいますか。神は右脳に宿るために左利きだと言いますが、閻魔様はどちらの手で閻魔帳をつけていますか。なんでも、三途の川から放射性セシウムが検出されたとか。

ハイジさんに宛てて書く手紙は、どうしても不謹慎な悪ふざけが口をつきます。

それになにぶん、死者への手紙に不慣れなものですから、どうしても質問が多くなってしまいますね。

言葉の主要な機能のひとつは、名指す事物の不在の表象作用ですから、手紙の形式の墓参というのも理に適うものと思います。

更新の止まったままのニセジゴクを、花束をマウスに持ち替えて墓参の感覚で訪ねることを止めて久しいですが、ふとした折にハイジさんの人を食った絶妙な更新を読む夢を見るのですから、万年床に横たわる薄汚い横顔の、決壊癖のある涙腺を刺激してしまうのもやむをえないことです。

もちろん誰もがいずれ、意識の秒針が外れて、腹時計は鳴らなくなる。

私もいわば肉体を背負っている幽霊であるばかりですが、生体という悲痛で憐れな形式を、いずれ許せるようになるのかもしれませんね。

それにしたって、エイプリルフールを命日とするのは、ブラックジョークの巧みな使い手としても、出来過ぎな上にやり過ぎです。

もう少し、この、否定的な修飾語しかふさわしくないような、おかしなこの世を、からかい半分、面白半分で、見学してからでも良かったでしょうに。

糸瓜棚この世のことのよく見ゆる」、これは敬愛する田中裕明の句です。

この頃、俳句に、はまりましてね。まったく、言葉の世界というものは汲み尽くせないものですよ。精神のバキュームカーは、何度もホースを取り替える必要がありますね。

そういえば田中裕明も若くしてこの世を去ってしまいました。詩の神に愛されることと、死の神に愛されることとは、案外、同じことなのかもしれませんね。

こちらは、相変わらず酒を飲み、本を読み、ノートを取るだけの生活に変わりありません。急がず騒がず元気よく、小声ではしゃいでいます。死ぬまでは、倒錯しきった生き恥を、無惨に晒し続けるつもりです。倒錯に倒錯を重ねていけば、やがて澄み切った境地に至れるかもしれませんから。死因は酒と活字による溺死になるでしょうね。

いずれ、お会いできることを楽しみにしています。血の池地獄の周囲に設置してある鯨幕柄のビーチパラソルの下で、ブラッディマリーを飲みまくりましょう。この世でもあの世でも、あなたは永遠に先輩なのですから、ぜひ酒代はおごって下さい。

それでは。まんげー。


アルファベットの収穫

Aを拾い、Bを拾い、Cを拾い、Dを拾ったところで、だいたい見当がついてくる。Eがあり、得心顔で、道を進むと、案の定、Fが、訳知り顔で落ちている。とんとん拍子は続くだろう。Gを拾ってじーっと見る、Hを見てそういえば最近してないななどとほくそ笑み、Iに勃起した陰茎を思い、J、K、と来た辺りでは、なるほどJK、女子高生とは気が利いている、などとろくでもない駄洒落やら妄想やらも繰り広げられる余裕まで出てくるだろう。L、M、なんだ、サイズを聞かれているのか、LだLだ、大は小を兼ねる、大便すると小便も出る、などと、酷い連想をだだ漏らし。Nを横倒しにしてZに見立てて、これでゴールにしようなどと、早くも飽きが来たようだ。ああ、もう秋だな、うん、秋だ。収穫の秋だ。新鮮なアルファベットがアルファベット順に落ちているわい、わっはっは、と下卑た大笑いがアルファベットの森に鳴り響く始末。Oを拾って輪投げをし、Pをステッキにして雨が唱えばゴッコを始めたかと思えば、Qを紫陽花の葉に這わせている。ずいぶん、手慣れたもんだね。Rを拾ったのでR。Sが履くのはデザインベルト付きロングブーツ、Tを拾ってティータイム。Uはあなたで私は愛。Vの楔は息継ぎの合図、Wと嫌なファッションと高校生、Xデーはいつ来るの?Y談独りで盛り上がり、Zでいつも眠るもの。おやすみなさい、アルファベットの兄弟たち。ZZZZZ。

2011年の秋風記

 みなさんご存じの通り、茨城県と石川県は地続きでありまして、県境をいくつか飛び越えますと(なんでも、県境は、標準的な歩幅を所持する人間の一歩で容易に越えられるということです)、なんなく行き来できる寸法となっております。
 私の家は茨城県に、Kの家は石川県にありました。まさにご近所なのでありますが、私は自分の気持ちがどうにもこうにもやりきれないことになりますと、ふらふらと歩いてゆくことがあります。
 でたらめに歩いているように見えて、案外、計算しているところもあるのでしょうか、たいがいはKの家に着いてしまいます。私はいつも首もとにぶらさげていない架空の犬笛を吹く真似をします。何度かその無音を鳴り響かせますと、図ったかのように、Kもまたよろよろと、勝手口からラメラメの入ったミュールなどを足につっかけて、現れます。

 「あら、こんにちは」とKは言いました。
 「ごあいさつだね」と私は答えます。慣用句的な意味合いではなく、ただの確認であります。「こんにちは」
 「どうしたの?具合でも悪い?」
 「頭のね」
 「よかった。いつもどおりのようで。ちょっと上がってく?」
 「いや、散歩に行かないか?」
 「そうね。そうしましょう」
 普段は、心の富士樹海を彷徨っているばかりで、なにやら自分自身の喪に服しているような気持ちで、歩いているのですが、Kと一緒に歩いていると、不思議に気分がよく、自然に蔓延るすべてのものに感謝したいような気持ちになります、などと心の中で呟きながらKと歩いている私でありました。
 「そうでしたか」とKは言いました。
 「私の心のナレーションを聞き取って返事をするのは…」
 「よします」

 近頃は、いよいよ、今までにもまして、この世には凶人しかいない、という確信が強まるばかりで、それが世界を見つめる方に原因があるとするならば、私自身のただでさえ薄い正気が失いかかっている証拠に過ぎないのだろうと思います。

 唐突な話ではなはだ恐縮ではありますが、私は以前、友人代表スピーチをしたことがあります。三日三晩考え抜き、失礼にならない程度の時事的な冗談なども加え、自分でもなかなかいいものが書けたと思って、一杯機嫌で読み上げました。新郎新婦にも、そのご家族にも、帰り際に、スピーチの内容を褒めていただきまして、屑のような自分もなかなか捨てたものではないじゃないか、と内心誇りに思いました。何ヶ月か後に、新郎が家を訪ねてきてくれましたが、「一万円しか包んでこない大学時代の先輩がいた」という話を真顔で語る彼に、暗澹たる気持ちになり、俄に興ざめ致しました。自分の時間と金を割いて、後輩のために足を運んでくれたんだ、お前の見栄だのなんだののクソみたいなものの詰まった披露宴、いったい何様のつもりなのか、ドングリ三つ握ってきたっていいんだよ、祝うってそういうもんだろうが、誰もご祝儀の集計を当てにした披露宴なんて開けって頼んでないだろうがクズが、と一瞬の間に酷い罵倒の言葉が流れるように浮かびましたが、にやにやしておりました。私は両親から巻き上げた三万円を包んで、力作のスピーチを懐にして、雀の目糞ほどの小さな勇気を振り絞り、彼の結婚式に参加した光景を思い浮かべて、ただただ自分自身の屑さ加減に嫌気がさしました。彼は、市役所で働いていて、無論、私なんかより遙かに立派な人間だろうと思うのですが、私には世の中のことがさっぱり理解できません。世襲制で何代も続く腐りきった伝統の価値観の奴隷、それはそれなりに辛いこともあるのかもしれません。荒れ果ててしまった自分の精神に気づけないほどに荒廃した心中、お察しします。ご静聴ありがとうございました。

 「そういう話、友達だと思ってるからこそ気安く話してくれただけじゃないの?」とKは感想を述べました。
 「そうなのかもしれません」
 「すぐにあら探しをして、やはりこいつはダメだ、と思うやり口は、いけないと思う」
 「まったく、その通りであります。にゃははでございます」
 私とKと、三十歳を越えた二人に唯一とも言える共通の趣味は、ままごとです。悲惨でしょうか。私には分かりません。もし世の中の一切がごっこ遊びであるなら、ままごとなどわざわざする必要もないのでしょう。
 二人でいるときはいつもいつも、互いに微笑を浮かべています。ひどく、優しい気持ちでいられます。近頃は、棒立ちにへのへのもへじを描いただけの顔にも表情が伺えるようです。私たちの代わりに案山子を二体立てて置いてもらってもよいのです。生きながらに墓標となるなら、案山子の姿がいちばんいいと思います。そのときはどうか、麦わら帽子を被せてください。夏は陽射しがきついでしょうから。

ぼくのすきなもの

ぼくは じゃぐち が すきだ
ぼうみたいな みずを はきだしてくれるから


ぼくは ぼう が すきだ
ぼうを にぎると 
げんしじだいに えものを おいかけていたころを 
てのひらから おもいだせるから


ぼくは てのひらが すきだ
いみありげな しわが なんぼんもはしっていて
どろっぷや てんとうむしを そのうえに のせることができるから


ぼくは てんとうむしが すきだ
せなかに まっくろなほしを いくつも かがやかせているから


ぼくは まっくろなほしが すきだ
ぼくのかおにも ふたつ ついている まっくろなほしから
よぞらにかがやく ほしぼしを のぞきこむことができるから

ガイドになれない、何者にもなりたくない

アルコール漬けで脳萎縮進行中らしいのだが、いつもけだるく、なにもやる気がしない。本を一行読むたびに眠くなり、その一行から展開されるぼんやりした夢がはじまり、目が覚めるとまた新たな未知ではあるがどこか懐かしい一行がはじまり、なにやら物語らしくなる気配である。目蓋を保有しているために、開閉作業なども無意識的に行われるようだが、構わず活字はその活発な静止の模様を連ねるようにして進んでゆくようである。「ガイドになれない/街の名前だって言いたくない」(川田絢音「ガイドになれない」)。なるほど、相互参照的な役割期待とその実践のやりとり、ミラーボールのように多面的な仮面と言動とを駆使したロールプレイが出来なければ、社会でのコミュニケーションは取れない。だが、必然性に欠ける。社会に出れば当然行わなければならないことが、まるで自分とは無関係にある。必然性など、この世に生を受けることからしてないのであるから、当然その必然性のなさを引き摺るはめになる。脚が生えているので歩く、手があるので何かを掴んでみる、いろいろやってみることはするが、途方に暮れるばかりである。この世の全事象は眩しい闇に覆われていて、思わず眼を見開いてしまうほどに真っ暗に輝いている。今もなお、深海の底にいるような気持ちでいる。「深海魚は目の前のご飯を食べようと口を開けるとき溺れないのでしょうか?」(31才無職、消滅希望さんより)。しらじらしい。街の名前、おそらくなんらかの歴史があり、名前の由来が不明であれ明らかであれ、あるのだろう。ただ、そんなことを聞いたり答えたり、人と人との関係と関与、そのことになんの意味があるのか。詩人はこの時、なにも言いたくないし、与えられた台詞を読み上げることもしたくない。ガイドになれない。ただ一切は過ぎてゆく。何者にもなりたくない。

まどみちおの「リンゴ」という詩と、パスカルのパンセにある断章の一つは、同じ事を違う側面から語っている。


「リンゴを ひとつ/ここに おくと
 リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけでいっぱいだ//
リンゴが ひとつ/ここに ある/ほかには/なんにもない//
 ああ ここで/あることと/ないこととが/まぶしいように/ぴったりだ」


「私の一生の短い期間が、その前後の永遠の中に呑み込まれ、私の占めているところばかりか、私の見る限りのところでもこの小さな空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくてここにいることに恐れと驚きとを感じる。なぜなら、あそこでなくてここ、あの時でなく現在の時に、なぜいなくてはならないのかという理由はまったくないからである。だれが私をこの点に置いたのだろう。誰の命令と誰の処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。」(パンセ、断章205番)

「現代俳句文庫29 池田澄子句集」を読む

定位置に夫と茶筒と守宮かな


いちばん好きな句。自分でも身の回りのものを三つ選んで点検しては「よしよし、あるな」と独り合点したくなってくるし、点検される側の夫や茶筒や守宮になりたくなる。夫ならば、奥さんに「いつもの場所にいるな」と、にやにやされたいじゃないか。「はいはい、まんまといますよ」と思いたいじゃないか。茶筒と守宮と同じくらいに見てくれてありがとう、ましてや生活を彩るそれらの名役者たちに先んじて名を挙げていただいて申し訳ない、と感謝の気持ちでいっぱいになる。第二芸術論に対して、俳句も芸術になりましたか、と高浜虚子が言ったときのような、余裕たっぷりな気持ちで受け入れたい。そして、茶筒や守宮にも優しい視線を向けてくれるような妻を持って幸せだ、という満足感にも浸れ、妻も夫も茶筒も守宮も、蛙もオケラもアメンボも、みんなみんな幸せな気持ちになれる名句なのである。



ピーマン切って中を明るくしてあげた


表面上のとぼけた言い回しに騙されてはいけない怖ろしい句。日常的に俎に載せられる「ピーマン」だからこそ分かりづらいのかもしれないが、試しに「ピーマン」の部分を、「蟻塚」や「クランケ」などに入れ替えて鑑賞して見て欲しい。一読して感じた違和感は、「○○してあげる」という恩着せがましい言い回しであり、まるで「明るくする」ことは一般的に良いことであるとでもいうような偏狭な価値観の押しつけに、根暗である自分のような人間や、盲人、太陽の存在を概念としても必要としない地底人等々に対する無意識的な明るい差別意識が、被害妄想狂の僕のような人間には透かし見えなくもないことであり、ピーマンの中の空洞とそれが初めて浴びるだろう光についての発見の句であるならばそもそも「してあげた」という部分は軽く言い流すべきではないのか、という点なのであるが、これが「モグラ掘り当てて直射日光に晒してあげた」などであれば、「あげた」の皮肉が直接伝わってきて、小気味よいのに、と思ったわけである。しかし、よく考えてみれば、二重三重の屈折の果てで、ピーマンを切るという自らの野菜への残虐行為を、生態系に纏わる食物連鎖の摂理を、ピーマンなる不可知の物体に対して人間的な倫理観や価値観のレンズを通してつい見てしまう人間のサガを、仮想された客観的な位置から笑うしかないというように、それらすべての不可避の事態を、ごく日常的な行為に過ぎないピーマンを切る自分を通じて、優しく皮肉っているのかもしれない。骨折と屈折は、複雑な方が興味深い。優しさもまた。産毛の鬱蒼とした耳殻を撫でるような、そんな肌触りのピーマンの中身が厨の灯りに照らされて光り輝く様子と、それを包丁を持って眺めている鬼婆の不吉な笑みと爛々とした眼が浮かんでくる、鬼句。



颱風の目の中部屋の上に部屋


台風の目は、目である以上、涙腺があり、まばたきがあり、窃視症があり、視力がある。視力がある以上、視力検査がある。今日は日本列島に建ち並ぶ建造物によって視力を問われる日。台風の目は透視能力が基本にある。部屋と部屋とを区切る天井と床の厚みを透かして、高層マンションの、ボロアパートの、二階建ての一軒家の、全階の様子を、いちどきに見て取る。各階に配置された住民を、家具を、仏壇のお供え物を、抽斗の中のホチキスを重ね合わせ、各部屋の細部の違いを瞬時に知ることで己の視力に衰えがないことを確かめる。台風は見るだけで評価はしない。部屋の上には部屋がある、と見るだけだ。ある住民が何気なく天井を見上げるとき、天の視線を感じ取っているのかも知れない。今、私は、天井の木目と目があった、そして同時に、その上にある台風の目にも見透かされた。楽しい妄想を引き出してくれる、嬉しい句。

低いところへ降りてゆく

低いところ   川田絢音



ずっと以前からそうしているように
中庭で
男たちがひそひそ話をしていて
天井からねずみの糞が落ちてくる
小さな窓に金網が張ってある
薄闇のほかには 何も見えてこない
かけ布はない
寝床はじっとりと湿っていて
スカーフも衣類も包帯のように体に巻きつけて
あおむけになっている
寄辺のない
これは どこへの途中
ふっと息の仕方が分からなくなる



今日は、枕元に備え付けてある川田絢音詩集「球状の種子」より、「低いところ」という詩を読んでいきたいと思う。
詩の読み取りを書いていくことが何につながるかも分からないが、いいじゃないか、ひとはどのようなことを考えながら詩を読むのか、僕は知りたい。
だから、僕のように、他人の詩の読み方を知りたい、という人だっていてもおかしくないはずだ。
なによりまず、詩のタイトルが不可解でよい。
低いところ、と言われてもどこのことやらまったく判断がつかない。
だからさっそく本文に入ってその真相を突き止めたい、そんな欲求に駆らせられる、さっぱりとしているようでやや屈折感も感じさせる、魅惑的なタイトルである。
ぱっと全体像を眺めたところでは、詩はたかだか二ページ分で、文は中途でたちまち行を変えてゆく形式だから、読みこなすのにそう時間はかからないだろう、「しめた!」と、怠惰な詩の読者であるわれわれは思いながら、おもむろに一行目に取り掛かってゆく。
「ずっと以前からそうしているように」とあって、なるほど、ずっと以前からそうしているのか、と早合点しそうになるのを、「ように」だから、実際はずっと以前からそうしてはいないのかもしれないのだ、と軽率な自分に言い聞かせつつ、二行目に眼を移すと、「中庭で」の三文字で二行目は終わる、中庭でなにか事件があるに違いない、これはいよいよ緊急を要するぞ!喫緊事!喫緊事!心の中の喫緊事コールの鳴り止まぬ中、たちまち三行目にゆくと、「男たちがひそひそ話をしていて」とくる。
たちの悪そうな男たちめ、なにをひそひそ話してやがるんだ、どうせ下世話な話に違いない、女の話か?美人の話か?美人主婦の話か?美人主婦の不倫話か?なんだなんだ?俺も混じりたいぞ!とわくわくしながらの四行目、「天井からねずみの糞が落ちてくる」と語られ、一方的に湧いた下劣な好奇心は宙吊りにされる。
ひそひそ話の件が解決されないままの新しい展開にわれわれの頭は困惑状態に陥る。
中庭の話だったはずなのに、天井?なにごとだ?三行目と四行目の間に、なにが起こったんだ?と吃驚する。
そしてたちどころに三行目に眼を戻し、四行目と照らし合わせるように読み直してみる。「男たちがひそひそ話をしていて」、「天井からねずみの糞が落ちてくる」。待てよ、この一連の語りをしている詩人は、どうやら中庭にはいないらしい、建物の一室から中庭にいる男たちのひそひそ話を見ているんじゃないか、だからひそひそ話の内容は聞こえてこないのだ、とすると、ひそひそ話をしているのを見ている詩人は、盗み見をしていることになり、男たちのひそひそ話を盗み見ている後ろめたさを心の内に潜めているにちがいない。
それを証拠に、見たまえ!詩人を罰するかのように、天井からねずみの糞が落ちてきている、天網恢恢疎にして漏らさず、天は詩人の秘かな罪深き窃視を見逃してはいないぞ!地味な不幸よもっと詩人に舞い降りろ!と思いながらも、もう一度冷静になる必要を感じて読み直す。
「男たちがひそひそ話をしていて」、「天井からねずみの糞が落ちてくる」、この不自然なつながりに、ひそひそ話が、ねずみの糞を降らしている、そんな魔術的な連関の可能性も脳裏をよぎってゆく。
五行目の「小さな窓に金網が張ってある」、は一転してシンプルな報告だが、天井から近い場所にその小窓はあるのだろうか。何のための金網かという疑問を詩人は一瞬でももっただろうか。
視線の行き先が、その都度唐突で動きが読めないが、不安感を覚える視線の揺らぎにただ身をまかせたくもなる。
中庭のひそひそ話、天井から落ちてくるねずみの糞、金網の張ってある小さな窓、目的も意図も抜け落ちているみたいに幽霊のように移ろう視線の先を追いかけるべく、次の行へ。
「薄闇のほかには 何も見えてこない」。
新しい技法が見られる。行を変えるのではなく、一行の中に、ひと文字分の余白を設ける手法。
「薄闇のほかには」と「何も見えてこない」の間に意図的に挿入された一拍は、読者を立ち止まらせる。
薄闇のほかには、とわざわざ立ち止まるのは、詩人が今まで見てきた男たちやねずみの糞や小さな窓の存在の報告を否定することにならないか、嘘になってしまわないか、を検討するための口篭りであり、ほかに見えるものがほんとうにないかと自分に問いかけるための詩人の一拍である。
なるほど、それらは確かに見たが、それらの事物を薄闇の一形態として取りまとめても異存はない、その決意が「何も見えてこない」というやや独断的なことを詩人に言わせしめた。
詩人自身の言葉にも薄闇が宿っていくようだ。
こうしてわれわれ読者の気分も詩人に誘われて薄闇へと入ってゆく。
そこへ来て「かけ布はない」だ。
さっき薄闇のほかには何も見えてこないと、視界に見切りをつけた詩人は、今度はかけ布もない、と悲惨な状況をも報告する。
われわれ読者の気分も沈んでゆくばかりである。薄闇のうえに、かけ布の不在。状況の改善はないのか。救いはやってこないのか。
祈りを込めながら次の行を拝む。「寝床はじっとりと湿っていて」。
祈りは届かなかった。
かけ布の不在のうえに、寝床はじっとりでは、状況の改善がないばかりか、事態は悪化の一途を辿るばかりではないか。生まれてこなければ良かった、もうこれ以上この詩を読んでいても辛いばかりだ、早く閉じてしまおう、と詩を読むのをやめる読者もいるだろう。布団を干せ、などと日常感覚から野暮な忠告を発したくなるやからも居るだろう。
たしかに、事態は深刻だし、「湿っていて」の「いて」のあとには、状況のさらなる悪化を予感させる「いて」だ、たしかに恐ろしい「いて」だが、詩人も頑張っているのだから、読者も頑張らなければならないはずだ。
勇気をもって前へ進め。
「スカーフも衣類も包帯のように体に巻きつけて」。
かけ布は不在だったが、なんだ、スカーフや衣類はちゃんとあるのか、とひと安心するのも束の間、「包帯のように」という比喩に、不穏なものを感じてしまう罠が待っている。詩人自身の比喩的な満身創痍を暗示する。詩人は病気なのではないか。心身ともになにか不穏なものに蝕まれているのではないか。たしかに、気の沈むようなことばかりさっきから起きているし、調子が優れなくなるのも当たり前のことのようにも感じる。
そしてついに、詩人の身体的状況がここで語られる。
「あおむけになっている」、と。
うつぶせではなかった。
確かに、うつぶせでは中庭を覗けないし、天井も見上げられない。だから、うすうす知ってはいた。
「うすうす知ってはいたぞ!」とわれわれは詩集に声をかける。悪い知ったかぶりがまた始まって調子がついた。
大丈夫だ、あと数行だ、読み切れるはずだ。自分を信じろ。
「寄辺のない」
寄辺のない、か。それもうすうすは知っていた。かけ布はない、寝床は湿っている、包帯でぐるぐる巻き、確かに、寄辺なさそうだ、これは詩人自身のことだろう。待て次行。
「これは どこへの途中」。
例の手法の再現。一拍技法。「これは」の「これ」とはなにか、難しい。現時点の詩人を取り巻く、今まで語られたようなあれこれの全体をおそらくは指しているのだろうか。現時点を途中と考えている以上、最終到達点を想定していてしかるべきだが、「どこへの途中」である以上、詩人自身にも不明なのだ。われわれはどこへゆくのか、われわれはなにものなのか、われわれはどこからきたのか、われわれの心のゴーギャンがそうわれわれに問いかける。
あおむけでいることも、ふとなにか放り出されてしまったような不可解な旅路の一環にはちがいない。
「ふっと息の仕方が分からなくなる」
いずれ詩人も、息を完全にしなくなるときがくるだろう。その練習をするかのように、息の根のありかが喉の奥で痙攣するように呼吸を迷子にさせる。
一編の詩を読むだけで、一日分の気力は使い果たされる。
使い果たして詩を読んできたが、結局「低いところ」とは何処なのかは突き止められなかった。
われわれの努力は徒労にすぎなかったのだろうか。
いや、あえて分からないままのほうがいいことだってある。心地よい疲れが眠りを誘う。睡魔が子守唄を囁く。さあ、眠ろう。おやすみ。