ハイジさんへ

お元気ですか?

死者に対する挨拶としては、皮肉ともウイットとも取れるような、妙な言葉ではあります。

現世の習慣、来世の記憶。

死者の国には朝刊が届きますか。鳥は空を飛びますか。恐竜が水を飲んでいますか。神は右脳に宿るために左利きだと言いますが、閻魔様はどちらの手で閻魔帳をつけていますか。なんでも、三途の川から放射性セシウムが検出されたとか。

ハイジさんに宛てて書く手紙は、どうしても不謹慎な悪ふざけが口をつきます。

それになにぶん、死者への手紙に不慣れなものですから、どうしても質問が多くなってしまいますね。

言葉の主要な機能のひとつは、名指す事物の不在の表象作用ですから、手紙の形式の墓参というのも理に適うものと思います。

更新の止まったままのニセジゴクを、花束をマウスに持ち替えて墓参の感覚で訪ねることを止めて久しいですが、ふとした折にハイジさんの人を食った絶妙な更新を読む夢を見るのですから、万年床に横たわる薄汚い横顔の、決壊癖のある涙腺を刺激してしまうのもやむをえないことです。

もちろん誰もがいずれ、意識の秒針が外れて、腹時計は鳴らなくなる。

私もいわば肉体を背負っている幽霊であるばかりですが、生体という悲痛で憐れな形式を、いずれ許せるようになるのかもしれませんね。

それにしたって、エイプリルフールを命日とするのは、ブラックジョークの巧みな使い手としても、出来過ぎな上にやり過ぎです。

もう少し、この、否定的な修飾語しかふさわしくないような、おかしなこの世を、からかい半分、面白半分で、見学してからでも良かったでしょうに。

糸瓜棚この世のことのよく見ゆる」、これは敬愛する田中裕明の句です。

この頃、俳句に、はまりましてね。まったく、言葉の世界というものは汲み尽くせないものですよ。精神のバキュームカーは、何度もホースを取り替える必要がありますね。

そういえば田中裕明も若くしてこの世を去ってしまいました。詩の神に愛されることと、死の神に愛されることとは、案外、同じことなのかもしれませんね。

こちらは、相変わらず酒を飲み、本を読み、ノートを取るだけの生活に変わりありません。急がず騒がず元気よく、小声ではしゃいでいます。死ぬまでは、倒錯しきった生き恥を、無惨に晒し続けるつもりです。倒錯に倒錯を重ねていけば、やがて澄み切った境地に至れるかもしれませんから。死因は酒と活字による溺死になるでしょうね。

いずれ、お会いできることを楽しみにしています。血の池地獄の周囲に設置してある鯨幕柄のビーチパラソルの下で、ブラッディマリーを飲みまくりましょう。この世でもあの世でも、あなたは永遠に先輩なのですから、ぜひ酒代はおごって下さい。

それでは。まんげー。