「現代俳句文庫29 池田澄子句集」を読む

定位置に夫と茶筒と守宮かな


いちばん好きな句。自分でも身の回りのものを三つ選んで点検しては「よしよし、あるな」と独り合点したくなってくるし、点検される側の夫や茶筒や守宮になりたくなる。夫ならば、奥さんに「いつもの場所にいるな」と、にやにやされたいじゃないか。「はいはい、まんまといますよ」と思いたいじゃないか。茶筒と守宮と同じくらいに見てくれてありがとう、ましてや生活を彩るそれらの名役者たちに先んじて名を挙げていただいて申し訳ない、と感謝の気持ちでいっぱいになる。第二芸術論に対して、俳句も芸術になりましたか、と高浜虚子が言ったときのような、余裕たっぷりな気持ちで受け入れたい。そして、茶筒や守宮にも優しい視線を向けてくれるような妻を持って幸せだ、という満足感にも浸れ、妻も夫も茶筒も守宮も、蛙もオケラもアメンボも、みんなみんな幸せな気持ちになれる名句なのである。



ピーマン切って中を明るくしてあげた


表面上のとぼけた言い回しに騙されてはいけない怖ろしい句。日常的に俎に載せられる「ピーマン」だからこそ分かりづらいのかもしれないが、試しに「ピーマン」の部分を、「蟻塚」や「クランケ」などに入れ替えて鑑賞して見て欲しい。一読して感じた違和感は、「○○してあげる」という恩着せがましい言い回しであり、まるで「明るくする」ことは一般的に良いことであるとでもいうような偏狭な価値観の押しつけに、根暗である自分のような人間や、盲人、太陽の存在を概念としても必要としない地底人等々に対する無意識的な明るい差別意識が、被害妄想狂の僕のような人間には透かし見えなくもないことであり、ピーマンの中の空洞とそれが初めて浴びるだろう光についての発見の句であるならばそもそも「してあげた」という部分は軽く言い流すべきではないのか、という点なのであるが、これが「モグラ掘り当てて直射日光に晒してあげた」などであれば、「あげた」の皮肉が直接伝わってきて、小気味よいのに、と思ったわけである。しかし、よく考えてみれば、二重三重の屈折の果てで、ピーマンを切るという自らの野菜への残虐行為を、生態系に纏わる食物連鎖の摂理を、ピーマンなる不可知の物体に対して人間的な倫理観や価値観のレンズを通してつい見てしまう人間のサガを、仮想された客観的な位置から笑うしかないというように、それらすべての不可避の事態を、ごく日常的な行為に過ぎないピーマンを切る自分を通じて、優しく皮肉っているのかもしれない。骨折と屈折は、複雑な方が興味深い。優しさもまた。産毛の鬱蒼とした耳殻を撫でるような、そんな肌触りのピーマンの中身が厨の灯りに照らされて光り輝く様子と、それを包丁を持って眺めている鬼婆の不吉な笑みと爛々とした眼が浮かんでくる、鬼句。



颱風の目の中部屋の上に部屋


台風の目は、目である以上、涙腺があり、まばたきがあり、窃視症があり、視力がある。視力がある以上、視力検査がある。今日は日本列島に建ち並ぶ建造物によって視力を問われる日。台風の目は透視能力が基本にある。部屋と部屋とを区切る天井と床の厚みを透かして、高層マンションの、ボロアパートの、二階建ての一軒家の、全階の様子を、いちどきに見て取る。各階に配置された住民を、家具を、仏壇のお供え物を、抽斗の中のホチキスを重ね合わせ、各部屋の細部の違いを瞬時に知ることで己の視力に衰えがないことを確かめる。台風は見るだけで評価はしない。部屋の上には部屋がある、と見るだけだ。ある住民が何気なく天井を見上げるとき、天の視線を感じ取っているのかも知れない。今、私は、天井の木目と目があった、そして同時に、その上にある台風の目にも見透かされた。楽しい妄想を引き出してくれる、嬉しい句。