さかい理容所

電線が前景を横切る杉林を見据えながら、細かい凸凹の続くクリーム色の舗装がしてある小道を抜けると、芝生の空き地が目立つ住宅地がある。
入ってすぐのところにブランコとシーソーが設置されているだけの小さな公園があり、手前の砂利敷きの場所に小豆色の自転車が止めてあったが、中に人はいなかった。
所々ペンキの剥がれたグリーンの金網、下方の破れた部分から白地に黒斑の猫がのそりと出て行く。
ゴミ袋を持ったおばさん、犬の散歩をするマスクをした青年とすれ違う。
おばさんは訝しげな視線をこちらへ送り、青年は挨拶をしてきた。相手と同じ反応をこちらも示すことにする。
犬を飼っている家が多く、隣り合う三件の犬に、順番に吠えたてられた。不審者を嗅ぎ当てているのなら正しい判断だ。
奥へ進むと、左手に林がある。断面が新しく、出来たてらしい切り株の周りには細かな鋸屑が散っている。
まむしが出ます、と朱筆で書いてある黄色い看板が立っていて、その横で、こちらに背を向けて焚き火をしている老人は、JAの紫色の帽子を被っていて、細長い竹の棒で火を盛んに突ついている。
林の終わりにあるカーブミラーの根本には、手作りらしい熊のぬいぐるみが置いてあり、それにまつわるエピソードを知りたいと思った。
コンクリートの防火水槽の分厚い蓋を小学生のようにわざわざ踏みに行き、また道へ戻る。
しばらくして比較的車の通りが激しい道へ出る。
風が強い。車道を越えて洗濯物が飛んできた。
庭で洗濯物を取り込んでいたおばさんが、おざなりな左右確認の後、道を横切って慌てて拾いに行く。
通りを左へ折れてすぐのところに行きつけの床屋の「さかい理容所」がある。
防犯意識皆無の店で、営業中の札がかかってはいるが、店内には誰も居ず、レジ代わりの携帯用金庫がドライヤーやバリカンの横に無造作に置かれてある。
渡り廊下でつないである隣接した母屋に店主を呼びに行く。ガラス戸の開け放たれた縁側に敷き布団が干されている。僅かに開いている障子の隙間越しに暗く奥座敷が見える。
何度か「こんにちは」と呼びかけると、トイレに入っていたと言う東南アジア系の顔立ちの老店主が出てきた。六十代後半くらいだろうか。
いつも通り、何も注文しないで座るだけで、髪に霧を吹きかけ始めてくれる。
風が強いね、と話しかけられたので、店の隣の家で洗濯物が飛ばされていた話をする。
散髪中、杖をついたハンティング帽の老人が店に入ってきた。
破けた部分をガムテープで補修してある黒い合成皮革のソファーに座り、ヘアケア用品の入ったガラスケースの上に置いてある漆塗りの菓子器から煎餅を取ると、おもむろに食べ始める。
二人目の客、髪が薄く散髪の必要性を感じさせない老人が間もなく入ってくると、二人の間で会話が始まった。
「早く死にてえ」「おめえ、120歳まで生きるわ」「友達もいねえし」「そんなんでは、死に神も寄りつかねえっで」「何言ってんのが、聞こえね」「つんぼは、えんま様の呼び出しも聞こえねえから長生きするわっで」「おら、友達もいねえし、つんぼだ、早く死にてえよ」
二人のやりとりを聞いて、店主と僕は声を出して笑う。
二千円を支払うと、店を出る。
行きに吠えてくれた犬たちは、帰りにも吠えてくれた。犬の鳴き声は輪唱のように連鎖をもたらし、ずっと遠くにある犬小屋にまで伝染したようだった。山彦のような遠吠えが、田畑の、川の、林の、ずっと向こうで響くのが聞こえた。


*1.さかい理容所へのアクセス 最寄り駅である常磐線羽鳥駅から徒歩五十五分。駅を出てそのまま車線のない車道をふらふらと五十分直進、突き当たりのセイコーマートを右折、五分後、白地に手書きでさかい理容所と書いてある看板を掲げる店が左側に現れます。営業開始はAM8:00〜

*2.さかい理容所定休日 毎週月曜、及び第一第三火曜 ただし、僕は月曜日に行って、散髪してもらったことがあります。