川田絢音、その0

「私の眼の中の果てしない真昼通りを行く私の眼の中の果てしない真昼通りを行く」(空の時間・39)
                     
「私の眼の中の果てしない真昼通りを行く」のは、「私」なのか、「私の眼」なのか、あるいは、「私の眼の中の果てしない真昼通りを行く」なのか。
もちろん、それらすべてなのであって、どこででも区分可能、且つ、どこででも区分不可能であることを示すために、この詩は行分けがなされていない。
この詩はひと息で読まれなければならないのだ。
「見る者が先なのか、見られる事物が先なのか」「自分を含んでいる外界を歩いているのか、自分の脳内で再構成されている世界を歩いているのか」というような認識の循環構造がこのまま永遠に繰り返されるのではないかという不安感と、それでも突き動かされて歩きつづけてしまう「私」の切迫感とを、正しく眩暈するためにも。
そして、そのエコーにひきずられるようにして、僕たちは散歩に出かけなければならない。
 
-1.
朝昼のあてどない散歩にふさわしい詩人が、川田絢音だ。
夜の散歩にふさわしいのは、天沢退ニ郎か、入沢康夫か。
それはまた後で考えなければならないが。

0.
川田絢音の第一詩集「空の時間」は、
鮮烈な幻想的イメージを喚起する数行の詩90篇で構成されており、
それぞれの詩に、タイトル代わりに番号が付されている。
川田絢音は、僕がいちばん好きな詩人だ。
これから、すべての詩について、僕の個人的な読み取りを書いていこうと思う。