川田絢音、その1

「血いつも血/青が青いように/渇きで熟れるオレンジのひっきりなしの爆発」(空の時間・1)

女性が「血いつも血」とか書いていたり、プールの授業を見学していたりするのを見ると、「花だ!紅い花だ!」とすぐに言いたくなるのが、補虫網を片手にした男子なのだが、残念ながらこれは「メンス」だけの詩ではない。

血と青が、それぞれ、短い1行の間に2度ずつ現れている点に着目し、「自明性を喪失した人間による確認強迫」とすぐに呟きたがるのが、心理学の教科書を片手にした新米大学生なのだが、残念ながらこれは「確認強迫」だけの詩でもない。

酔っ払いながら一読し、「素人は、『渇きで熟れる』という形容を見ただけで、オレンジを果物として捉えたり、血の赤や青の青さだとかに引き摺られて、オレンジを色彩の一種として捉えたりと、なんでもかんでも一義的に解釈したがるんだけどよ」とすぐに得意がって喋りたがるのが、ワンカップ大関を片手にした(若い頃詩人を目指していた)オッサンなのだが、残念ながらこれは「果物としてのオレンジが、爆発した瞬間から、色としてのオレンジへと変化し、最終的には血の赤と青の青さとを加えた3色で織り成すこととなる色彩のコントラスト」だけの詩でもない。

そして、それらすべての解釈をあげつらってはせせら笑うだけで、自分はなにひとつまともな解釈モデルを提示したがらないのが僕たち読者の多くなのだが、とすぐに書きたがるのが、読みたいように読めばいいじゃんかと思っている僕たち読者の多くなのだが、残念ながらこれは「読み手によって解釈なんて変えとけばいい」だけの詩でもない。

これらの解釈はすべて少しずつ正しいが、一面的だ。
実は、この詩は、詩人の身体イメージを、空やオレンジなどの外界の事物へ投影して描いている、というのが正解なのである。
「血いつも血」である私の身体。
「青が青い」と感覚し、認識する私の身体。
「渇きに熟れた」私の身体。
「ひっきりなしの爆発」に見舞われている私の身体。
青が青いように、というのは、空に投影された、自分の身体意識、身体感覚の同一性の確認。その作業のように。
渇きに熟れたオレンジのひっきりなしの爆発、というのは、へへ、分かるだろ。発情、メンス、その他。

というわけで、「空の時間」が始まりました。よろしくお願いします。