川田絢音、その2

「素裸を曝してわなないている鏡の何処にでも鳩のように生える泉にくちづけを」(空の時間・2)

鏡が素裸を曝すとは、どのような事態だろうか。
「映し出す対象を衣服に見立てている」と考えれば、素裸とは、「何も映していない」状況だということが分かる。
「何も映していない」とは、鏡が、布か何かで覆われているためだとか、そんなレベルの話ではない。
その理屈だと、「目蓋を閉じた眼は何も見ていない」ということになるが、実際は「目蓋の裏をこの上ない至近距離で見ている」のである。
すなわち、この詩の場合、「何も映す対象がないという、理想的な架空の状況にある鏡を想定している」と考えるのが自然だろう。
物理学において、あらゆる現実的条件を排除した理想的状況を想定するときのように。
そんな慣れない状況に置かれているわけだから、素裸を曝してしまった鏡が、思わずわなないてしまうのも当然の話だ。
参考までに「わななく」の辞書的意味を確認しておこう。岩波国語辞典を参照すると、『(恐れや怒りなどのため)体全体または手が、ふるえる。また、ふるえ動く。おののく。』とある。これは尋常なことではない。
なにしろ、鏡は、絶えず目の前の状況を映し出す自分しか知らないのだ。
もし、自らに映し出されるものだけによって今まで支えられてきた自己同一性と存在理由とが、突然、不当にも奪われたのだとすれば、鏡がどのような反応を起こしたにしても、なんら不思議ではないし、責められるべきではないだろう。
これは、無機物反応心理学的にも、実に興味深い思考実験だったと言える。
さて、私たちは今では、川田絢音の貴重な思考実験詩によって、鏡の内に秘められた重要な性質を知っている。
つまり、「映すべき対象がなにもないときは、身体中、所構わず泉を生やす」ということである。
これは、粉々に割れてしまった鏡が現す性質「世界を微塵に区切る」と並ぶ、鏡の究極的な感情表現のひとつと考えていいだろう。
人間ならば、泣き喚いたり、家具を蹴飛ばしたり、すべてを諦めたりするところだが、さすがは鏡、絶望的な状況に陥っても、エレガントさを忘れることがない。
ついでだが、「鳩のように」の部分は、上野公園で見かける大量の鳩を思い浮かべればいいだろう。ヤツラが、ほんとにいくらでもいて、何処にでも出没することを考えれば、的確な比喩であることが分かるはずだ。
しかし、鏡から生える泉は、よほど、唇触りがいいらしい。
あるいは、なにか身体に良い効果があるのかもしれない。
例えば、「あなたの肌の映りを鮮明にします」とか。鏡だけに。
いちど、くちづけしてみたい。川田絢音に。