川田絢音、その9

「発芽するものたちの臭い息に揉まれながら透明な時計が建築されている」(空の時間・9)

僕がまったく個人的に、「建築モノ」あるいは「組み立てモノ」と呼んでいる分野のポエジーがある。例えば「ばらばらのストップウォッチもう一度組み立て直したら虹になる」という穂村弘の短歌。この種のポエジーは、別に抽象的な観念世界のなかでだけ発揮されるものではない。堆肥の山の中のバクテリアが、積み上げられた山の中の葉と草の高度に複雑な分子構造を破壊しなければ生きることはできないように、無限に見えるこの世界も、実は限られた粒子の可能な限りの行き当たりばったりな組み合わせによって成り立っているはずである。その意味で、「建築モノ」あるいは「組み立てモノ」のポエジーは、現実の法則を模しているにとどまらず、ある意味ではちゃんと則っているとも言えるのだ。

いきなり話がそれた。今日はこの詩だ。さて、時間は視覚化可能だが、時は視覚化できない。茫漠な世界が言葉で分割されることによって対象化が可能になるように、時もまた時計の針で分割されることによって、時間という形で対象化が可能になる。よって、見えない針を回し続けるだろう透明な時計とは、時のことを言っているのだと考えてよい。「時」を「透明な時計」と言い換えることによって、時間に振り回されずに永遠の時の中で生きたいという希求と、生活が要求する現実感覚を断ち切れないという思い切れなさとを、巧みに表現することに成功している。そう考えれば、「発芽するものたちの臭い息」は、社会に生きる人間たちの言葉や感覚を表しているのかもしれない。外界から絶えず発信されるその種のものに揉まれながら、自分の中で静かに育まれていく透明な時計。しかし、やはりこの「発芽するものたち」はそのまま、植物のイメージで考えたい。単純に、夢のような植物の中で流れる時に憧れている詩であると。

ところで、滝口修造の「手づくり諺」って詩に、「誰か?まず物を言え、透明よ!」って1節があって、これは逆の感覚。不安を呼び起こす透明に向かってなんらかの形での存在の証を要求している。川田絢音の場合は、むしろ、存在に不安を感じ、透明なことに親近感を抱いていると言っていい。