事物の在処

一日物云はず蝶の影さす   尾崎放哉

俳人が指し示しているのは、名前ではない。名指しできることと知ることの愚かな混同を指し示しているだけである。彼が指し示すのは、庭の凹凸をその凹凸の形のままに即興でなぞりながら滑っていく蝶の影である。物理学的、生物学的な説明の背後に厳然とある形而上学的な本質を、彼はただ黙って指し示す。神は細部に宿るのではない、細部は神に宿るのだ。彼は本当は、指先の行方ですら、自らの意図の翳りに犯されていることを知っている。指先には指紋が疑念と共に渦巻いている。渦を巻く先に指し示される物が果たして何を示しているのか。未知の未知なる不可思議を驚いて欲しい、いや、驚いている自分とは何なのか、指を指すことは世界と自分とのどんな関係と関与を示すのか、世界と自分とにどれほどの差があるのか、差を見出してしまう自分とは何者なのか、疑問符と感嘆符とが、指のかたちで表現されてしまうことを目撃している視界とは何のためにあるのか。名指しに付きまとうのは、常に見落としである。詩人は、見落とし続ける者に、そっと忘れていた視点を授けてくれる。ああ、確かにこんな光景があった。そう感じ入っている間に彼は黙ったままその場を去っていく。人は、見落とす。見落とし続けることでしか生き続けられないからだ。台所の流しにある種々の生ゴミを孕んだ三角コーナーをためしに三十分凝視し続けて欲しい。もし、共に生きる住人がいるなら、その行為を心配と共に止められるだろう。詩人は、孤独だけが生涯の伴侶であることを本能的に理解している。