後ろ姿の文面

今朝は悪夢に魘されて起きた。冷や汗がすっと一筋、彼の漆黒の背筋を伝い下りていった。レンゲ畑で笑い合う動物たちの悪夢。歯磨きのポスターに虫歯菌役として採用される悪夢。触覚化された清潔なる概念に包まれて鳥肌を立て続けている悪夢。
 時計は二時四十分を示していた。規則正しい生活を心底憎む彼は、決して起きる時間が被らないようにジャポニカ学習帳に記入しておく。枕もとにいつも置いてあるメモ帳代わりのそのノートには、夢の中で浮かんだ発明のアイデアも書きつけてある。強力なバネの巻き方について。螺旋形エスカレーターの手摺に最適な素材について。壊れかけの跳び箱の簡易作成法。別の惑星で裏返した砂時計の時間を計るための方程式。
 ノートへの記入を終えると、ベッドを降り、窓の方へと向かう。閉められた状態にあっても深い襞が残るように作られている特製のカーテンを開くと、相変わらず外は暗い。昼夜を問わず暗雲が立ち込めている城は、目視で時を計りにくい。二時四十分が午前なのか午後なのかはっきりしない。
 バイキン城は巨大なバイキン山の頂上に位置している。山肌に織り込まれた襞を舐めるように流れ落ちてゆく雨、窓から漏れた部屋の光に照らされた部分だけ雨筋が見える。崖を構成している土塊、その細かな破片がいくつか急な斜面を転げ落ちていく。
 彼は自分の感情と、天気との神秘的な連動を感じることがある。発明に関わる天才的閃きの瞬間に、巨大な雷が夜空を梳る。枝分かれの極端に少ない雷は、黄色の色画用紙を切り抜いたように単色で走り抜ける。一拍置いて、小学生の鼓笛隊によるドラムロールのような音が響き渡る。ドキンちゃんにホットケーキの焼き具合を褒められた時などには、上空を常に覆っているはずの分厚い暗雲に少しだけ穴が開いて、雲間から光が差して来ることを確かに感じる。このような結びつきに気づくとき、自分には計り知れない超越的な存在があるのではないかということを、一瞬ではあれ、彼に信じさせる。しかし、彼は信心という心の有り様を軽蔑しているために、すぐに自分の感じたことを否定するように首をふる。二本の触角がしばらく揺れ、アメリカンクラッカーのように先端の球状部がかち合い、弾き合う。
 長い廊下を辿って、研究室へと向かう。電話帳ほどの厚さがある金属製のドアには、アンパンマンが金槌で潰されている絵の描かれたプレートが架かっている。
 ドーム状の天井の室内、その全体を覆うように汗牛充棟たる巨大な書棚がある。浩瀚なる百科全書。世界中の古今の散文詩の詩集。直感像素質者である彼は、本の内容を写真のように記憶している。背表紙のタイトルを眺めるだけで、本の一ページ一ページがさっと脳裏に浮かび、放って置くと何ページ分でも諳んじることができる。
 月刊「歯車」は、彼の愛読雑誌であり、バックナンバーはすべて取り揃えてある。極彩色の鸚鵡が一枚の歯車を啄ばんでいる写真が表紙の、歯車専門雑誌。彼は書物の他にも蒐集癖がある。恐竜の嘔吐物の化石、吸血鬼の乳歯、ろくろ首の口蓋垂、悪魔の尻尾製の鞭、人魚の脳のホルマリン漬け。彼の耽美主義的な独自の美意識によって集められたそれらのコレクションは、別室のコレクション室に置かれている。
 ドキンちゃんが研究室に入ってくる。ノックはない。
「起きたの?」彼女のオレンジ色の身体を縁取る曲線が柔らかく動く。
「そのようだね」
「今日も行くの?」
「まあね」
アンパンマンと会えるといいね」
「パン屑にしてやるよ」
「そうね」
「なあ、」
「なに?」
「肩に、ついてるよ」彼はドキンちゃんの肩から、パン粉を球状の拳で器用に摘まみあげる。食パンマンのフケに違いない。「また会ってたのか?」
「うん」
「あんまりヤツと仲良くするなよ」
「分かっては、いるつもりなんだけど」
「壁に耳あり、食パンマンにも耳ありってね」
「食パンマン様、と呼んでね。親父ギャグ屋さん」
「おれの名はバイキンマン様だ」彼は低く呟く。「あいつはアンパンマンの友達じゃないんだ」
「そういえば、友達は愛と勇気だけってよく鼻歌歌ってたね、アンパンマン
「あいつは偽善者だ。仲間として利用するために、友達と思っていないのにも関わらず、食パンマンに友達ヅラをしているんだ」
「話が長くなりそうだから、これ」ドキンちゃんが後ろ手に隠していた手紙を彼に渡す。「ファンレター、届いてたよ」
「ああ」
「人気者だね」
「うるさい、もう出て行け」
「はいはい」ドキンちゃんが気だるそうに研究室を出て行く。
ドキンちゃんの気配が完全に失せるのを確認してから、手紙の封を切る。


ばいきんまんさんの活躍ぶりを、いつも見ています」


 彼はこの書き出しに、いつも疑問を抱く。どこから、見ているのか。何故、見えているのか。時折、自分自身が自分に書いているのかも知れない、と妄想する。記憶を共有できない自分の中の二つの人格同士の、交換日記的な意思疎通法なのかも知れない、と。だとするならば、二重人格を疑わなければならない。


「また、やられてちゃったね。
 いっぱい作った水風船の作戦、かなりよかったと思うのにな。
 ばいきんまんさんは、きっともっとずるくできるはずなのに、と思うことがあります」


 手紙の書き主は一体、何者なのか。


「わたしはばいきんまんさんの大ファンです。
 友だちはみんなアンパンマンが好きだけど、わたしはこれからもずっとばいきんまんさんをおうえんしています」


 彼の違和感は続く。また、彼自身の輪郭線との関わりも見逃すことはできない。たとえば怒りを感じたとき、普段はサインペンで描かれた自らの真っ黒な輪郭線がマッキーペンの極太ほどになる。心身ともに張りがあり、とても充実しているときも、彼は彼自身の輪郭線の変化を感じる。また、打倒アンパンマンの志は決して変わることはないのだが、発明に打ち込んでいるとき、その信念が抜け落ちて没頭している自分にはっと気づくことがある。手紙を読むときの違和感にも通じている何かがある。


「これからもがんばってください。いつかアンパンマンにかてる日を楽しみにまっています
 それではこのへんで。またね」


 文面が後姿に変わるのを感じる。致命的な意識へのダメージを感じる。見知らぬ彼の目撃者、その去っていく影が、彼の意識を朦朧とさせ、自律性を奪っていく。人形になった自分が呆然と立ち尽くしていることに彼は気づけない。