川田絢音、その5

「眼の空にせりあがる幾何学的な光景の中であたらしい溺死体を発見する」(空の時間・5)

「監禁病棟」という映画で、「小さな子が電気の消えた暗闇で寝る時の恐怖。闇に潜んでいる何かがおそろしいから、灯りをつけるのも怖い。」と、語られる場面がある。
僕は、「闇に潜んでいる何か」を、「幽霊」と名づけ、怖れていた。
小さい頃から、眠る前に、眼をつぶって、目蓋の裏側の暗闇に浮かび上がる流動性のモヤモヤした色彩がカタチを変えてゆくのを眺めているのが好きだったが、そのモヤモヤが、なににカタチを変えるかは、主として自分が恐怖を抱いている対象に左右されていた、と思う。
それらはみんな幽霊の一形態なんだ、と思うことにしていた。いろんな形態へと移り変わっては、どこにでも出没する幽霊。
恐怖の対象を何度も意識的に発見しようとすることで、日常性の中へと溶かし込んで織り交ぜ、意識の支配下に置こうとすること。恐怖の対象の不気味さを、除去しようとすること。イメージを飼いならすことで恐怖心を克服しようとすること。
無意識の内に、その種の精神防衛を行なっていたのだと思う。
僕はいつからか、幽霊を怖がることがなくなり、夜中、トイレにも独りで行けるようになったが、今では、その代わりに、人間が怖くなったし、新しい場所には独りでは行けなくなった。何事にも代償はつきまとう。

さて、アンナ・フロイトは、その著書の中で、子供が、叱る教師と同じ表情をしたり、幽霊になってしまえば幽霊は怖くないと考えたりする様子を記述し、それらの現象を「攻撃者への同一化」という概念で包括している。
本来、精神を脅かす忌わしい対象である「溺死体」を意識的に発見することで、そこに自己を投影し、同一化してしまうことによって、恐怖心を克服しようとする試みが、この詩の中で描かれていると考えてもよいだろう。
自分が空に浮かぶ溺死体になってしまえば、怖れるべき溺死体は親しい仲間たちにすぎなくなるのだ。