マヨよ、パセリよ、カキフライよ

容姿や頭脳機能など、生まれつきの自分の備品に、多大な欠陥があるのにもかかわらず、相変わらず、自己の完全性への幻想が捨てきれていない。
そのことを考えるたびに、廃品集積場にある壊れた扇風機の部品を集めて、ハイビジョン液晶カラーテレビを組み立てようとしているような気分がしてきて、吐き気を催すこととなる。
理想我と現実我の適度な距離感は良質な向上心をもたらすが、途方もない距離感は真っ当な絶望感と正当な虚無感とをもたらす。
どちらがよいのかは一概には言えないが、僕は自分自身をせめて我慢できる程度の人間にできるよう、自分なりの努力を積み重ねてきたつもりだ。
しかし、未だに現にあるような自分に馴染めず、居心地の悪さを感じている。
これは、積み重ねてきた努力の方向性の誤りを示しているのかもしれない。
この上ない謙虚さと卓抜なユーモア、明敏な頭脳などに憧れ、飢えている。
つねに俯瞰した状態から物事を多角的に眺められるよう意識しなければ、謙虚さを獲得することも、ユーモアを解することもできない。
明敏な頭脳が必要だ。
さもないと、物事を真に受けて、感情的になることになり、苦しむことになる。
自身へ向けられた悪意に憤り、自身に定められた運命を悲しみ続けるのは、精神衛生によくない。
叙情的だったり、感傷的だったりするのは、精神が弱っている証拠だ。
僕は内面を鍛え上げることから始めて、いまだにそれが続いている状態だが、
そのうち、身体を鍛え始めて健康に気を使い出すかもしれないし、ファッションに興味を示しだすかもしれない。
いずれ、社会的になり、経済的に自立し、人類の平和を考えるようになり、未来世代の生存可能性を考慮してエコロジーに関心を抱くようになるかもしれない。
いまのところは、手が回らない。並行して行なうべきことなのかもしれないが、それだけの器用さがない。
自由というのは選択肢の豊富さのことで、なにかを選べるということが、自由なる者の特権だ。
精神の自由、ということを考えれば、あらゆる思想を臨機応変にいつでも採用できるよう、自分の中に蓄えておく必要がある。
僕は精神の自由がもたらすものの特権性をより重要視している。
だから、野生のセイウチと取っ組み合うことになる場合に備えて、筋力トレーニングを欠かさないのもいいが、
不条理な事態に巻き込まれて困惑する場合に備えて、読書をして思索にふけるのもいい。
「神よ、自由よ、超越論性よ」そう心の中で呟きながら、ワンピースのサンジとナミさんがセックスしている同人誌を読み、オナニーをした。「ザーメン」