枡野浩一に――

嫌いだ嫌いだと喚いていても自分が狭くなっていく一方なので、ちょっと好きになってみる。
考えてみれば、僕の目標は全人類を全肯定できる言葉を身につけた究極のヒューマニストになることだった。
あまり好き嫌いせずに、一人一人丁寧に好きになる努力をしなきゃ。
そう思って、手持ちの短歌集を読み返してみた。


「本音さえおうおうにして意地悪にかたむきすぎて偽悪している」
「やめようと誓った行きとやめるのをやめようかなと思った帰り」


枡野浩一のこういう短歌が好きだ。ずっとうまく言葉にしたかったのにできなかったことをピシッと言葉にされてしまった気がして、嬉しいわ口惜しいわで、初めて読んだときはとても興奮した覚えがある。膝は打たなかったが、舌打ちはした。


「他人への怒りは全部悲しみに変えて自分で癒してみせる」


この短歌は好きというよりは、その方針を僕も採用していたので、仲間がいた、という感じ。
怒りという感情が僕は昔から嫌いで、怒っている人はみな芝居がかった空気を醸し出すので嫌いだ。あ、また好き嫌いしちゃった。
怒りという感情は、後天的に学んで覚える種類の感情なのではないかと考えている。
だって、飼ったことがないのでよく知らないのだけれど、赤ん坊は初めの内は、泣くか笑うかしかしないんじゃないかしら。
世の中には嘆き悲しむに値するようなことはあっても、怒りに値するようなことなどない、と、せっかく思っていたのに、周りの人間が怒っている様子を見て、自分も真似していろんなことに怒りを示すようになるのではないか、と。そういう制度的な感情なのではないか、と。


「もう愛や夢を茶化して笑うほど弱くはないし子供でもない」


こういう短歌が、幼い予防線を張っているなあという感じがして好きになれない。
そんなことをわざわざ短歌にして言い聞かせなければならないほど、弱くはないし子供でもないと思ってしまう。
でも僕の大好きな浜崎あゆみが、「INSPIRE」の歌詞の中で多分この一首を意識していると思われる部分(「愛だとか夢だとかを口にすることはカッコ悪いことなんかじゃない」)があるので、好きにはならないまでも、嫌いにはならないことにした。


「太ってもやせてもたぶん君よりは宮沢りえは百倍美人」


こういうのも面白くない。
宮沢りえ、のチョイスとかは時代とか好みの問題だからいいのだけれど、百倍ってところがどうしても気になる。
倍率とか割合とかの概念がよく分からない。よく「8割方巨人が勝つと思っていた」というようなことを平気で言う人がいるけど、その8割って数字の根拠はなんなのだ、と思う。適当だよなあ。数字には厳密さを要求されるような気がするので、なんとなく拒否反応があるうえに、百って数字が、いかにも慣用句的な気がする。


そういえば、僕は枡野浩一が割と好きだった。これから枡野浩一を引用するときには、「僕の好きな枡野浩一はこう言っている」と言うことにしようと思う。ひねくれるのはよくないと聞いたことがある。