川田絢音、その59

「夢の中でのように/凶暴に/ひばりのいない空にひばりを見る」(川田絢音「空の時間、その59」)

夢の中では、発見と発明が同義であり、自分がそこで見つけるものは、常に自分が創り上げたイメージである。
創りたての鳥が、見つけられては忘れられ、また次の鳥が創られては発見される。
踏み込んだ足の先に足場が作られては消え失せ、手を差し出した先に感触が生み出されては霧散する。
夢の知覚や感情がそれに見合うなんらかのイメージを要求し続けているからであり、
それと同時に、夢のイメージがそれに見合うなんらかの知覚や感情を要求し続けているからである。
観察者としての自分が感覚していない細部も遍在するのが現実の本質であるのに対して、
夢の特徴は、<今、ここ>と<私から開ける感覚野>だけが存在するということで、その他の細部は、時空間共に、いずれも設定されていないということであるが、
ここでは、夢の論理を一部現実に持ち込んでしまおうと画策し、少々無理矢理な白昼夢に耽ろうとした詩人がいるわけである。
「凶暴に」が効いている。
ひばりのいない空にひばりを見るくらいの幻視は、いかにもありそうなことなのに、このように言われると、夢の中での犯罪に現実の法律を適用しようとするくらいに、乱暴な行為のように思えてくるから不思議だ。
さらに詩人が凶暴性を増せば、ひばりの背景となるべき空そのものまでを、空のないところに見ることになるだろう。
例えば、「夢の中でのように/凶暴に/ひばりのいない天井に/ひばりのいる空を見る」という風に。
僕だって、夢の中でのように凶暴に、厚みのない平面に立体的で活発な世界を見る。
そして、このような傾向が日常と化したとき、人は、心象投影と対象認識の区別を無くし、統合失調症と診断されるようになる。
統合失調症患者とは、夢見るように現実の迫真性を生き続ける人のことである。
嘘が一切混入されず、ただただ真実ばかりが眼前する苦しみを知る人のことなのである。

連日、キチガイ日記になっている。コメントの返事とかもキチガイそのもので、手が付けられない。なんだこれは。
自分で自分の日記をどんどん書きづらくしている。
また涙もろくなった。電話しながら泣き、漫画読みながら泣く。
ハチクロがいけない。なんていい漫画なんだろう。こんな風に描けたらどんなに素晴らしいだろう。
「帰ろう/また/同じ数だけ/ペダルを踏んで」(ハチミツとクローバー7巻、P132)
あー。あーー。帰りたい。子宮に。
「帰ろう/また/同じ日数だけ/時間を戻して」(胎内回帰願望、25歳と1ヶ月)