川田絢音、その41

「眠れ/何処からでもはじまる階段は卵ひとつない正午の空へ通じている」(川田絢音「空の時間、その41」)

ドラエもんを読むと「どこでもドア」が欲しくなるように、この詩を読むと「どこからでも階段」が欲しくなる。
旅先などで、ふと、その場を俯瞰したくなったときに、何処からでも始まる階段を上がっていくと、高いところからの眺めを堪能することができる。
梯子はいけない。梯子の不便さは、立て掛けるための建築物等をあらかじめ用意しておかなければならないところだ。
階段は階段だけで自立できるし、途中途中にちょっとした踊り場くらいが設えてあればいい。無料の飲料物自販機なんかがあってもいい。
「踊れ/何処にでも産まれる踊り場にはコイン投入口ひとつない自販機が設えてある」踊らない。
正午の空へ通じている屋根のない階段は、真夏を走り抜けるオープンカーのように気持ちがいいと思う。
「眠れ」とあるから、「どこからでも階段」は夢の中でしか使えないのだろう。張り切って、眠ろう。僕なんて、毎日眠っているよ!
さて、「卵ひとつない」だが、卵は産み出される生命の象徴だから、空の含有する生命数が徒らに増えないことを意味しているのだろう。
忌まわしい増殖からは遠い正午の空に於いて、常に定員数だけが揃っている生命は、その数を減らすことだけが許されているのである。
空に良く使われる「澄み渡る」とは、夾雑物の不在が行き渡る、ということなのかもしれない。
飛行船や鳥や雲で埋め尽くされた空のなんと息苦しいことか。
だからこそ、正午の空は可能性に満ちた空席がふさわしい。
「ひばりのいない空にひばりを見る」のは、私たちに任せて欲しいからだ。

「卵ひとつない空」という言い方は、不在であることが当然であるものを、わざわざ否定形で提示する手法によって、不穏な空気をもたらそうとするタイプのポエジーだ。例えば「窓のない墓場」とか。
村上春樹の著書に「使い道のない風景」というタイトルの本がある。よいタイトルだと思うが、これは前述のポエジーを少しひねったものだ。本来の利用方法や使用目的などとは違う見方で事物を眺めた場合に産まれるタイプだ。通常、人は風景を、使い道があるかどうか、という観点で眺めることはない。類似品を考えると、例えば「投げにくいハムスター」とか「殺害しがいのない死体」とか。
それに対して、あって当然のものがないということを表現する、というポエジーは大分慣用化されている。ポエジーは通俗化した時点でその輝きを失い、代わりに一般性を獲得する。例えば「出口のない迷路」とか。「不可能という文字のない辞書」とか。だから、こういうのは、ポエジーとしては少し踏み込みが足りないと言えるかもしれないが、使い勝手は良いし、言葉の選び方によっては、まだまだ使い道はあると思う。僕は偉大な詩人なので手垢の付いていないこの種のポエジーも、いくらでも提示できる。例えば「湿り気のない海」とか。あって当然ということすら意識に浮かばないことを掘り探っていけばいいのだ。

「乗れ/何処からでもやってくる波は湿り気ひとつない正午の海へと運んでくれる」
私は濡れることのない海で無我泳法で泳ぎ、足に砂がつくことのない砂浜でホームレスヤドカリと遊ぶ。
直視できる太陽光線は輝きを増すばかりで、触れることができない遠くにいるはずの水着美女たちを間近に見ることができる。
私は海が嫌いだ。だから、自分の部屋には置いていない。
私の中に海の癒しがたい痕跡があるばかりだ。
風呂も嫌いだ。だけど、それは置いてある。生命発祥の地、その模造品。
私の中に海への癒しがたい飢餓がある。海水回帰願望の名残り。