生沼義朗歌集「水は襤褸に」を読む

清水国明がその全容を知っていると自称するブックオフに、誰も読まないような歌集や句集が100円で売っているので、たまに買う。
こういう本の面白いのは、「誰々様へ。著者名」というような贈呈を示す紙が栞代わりに挿んであったりするところだ。
「せっかく知人の著者に一方的に貰ったものの、訳分からん俳句やら短歌やらが載っているだけで困り果てたので、嵩張るし、やっぱり売り払うことにしました」といった感じのたたずまいがたまらない。少々意地悪な気分で本の遍歴を考えるだけでも十分楽しめる。
生沼義朗歌集「水は襤褸に」を買って読む。当たりだった。
帯に載っている「『自宅へと帰りつくまでがコミケです』そう、遠足の延長だから」という一首が眼にとまったのが大きい。
帯にはこういう少々あざといくらいの短歌を載せとくといいんだな。
以下、ひっかかった短歌を感想と共に紹介。

ペリカンの死を見届ける予感して水禽園にひとり来ていつ」

こういう独自の天啓というかそういうものに導かれてフラフラとどこかへ行ってしまうってことが僕にもあって、
「今日は吾妻ひでおの「妖精の森」が入荷されている気がする」と神田の古本屋へ行ったりするのだけれど、置いてない。
多分この歌人も、行ってはみたものの、結局ペリカンの死は見られなかったと思う。でも、そういうのも楽しい。

「いっせいに量販店のモニターに映るはマルチナ・ヒンギスの顔」


ヒンギス」って選択がいいよね。ヒンギスの顔ってアップで映されると何事かと思うんだよね。強烈な顔だよアレ。
みうらじゅん」とかだったら、少し狙いすぎだしね。これはこれで何事かと思うんだろうけども。
で、それがウォーホルの「200個のキャンベルスープ缶」みたいに大量に映ってるんだから、それはそれは圧巻だったろうと思う。インパクトのある光景が眼に浮かぶ。
関係ないが、僕はいつも、部屋に貼ってある浜崎あゆみのポスターにキスするとき、この光景が隠しカメラで撮られている上、量販店のモニターにリアルタイムで映し出されているという妄想に駆られる。病気だと思う。自分のこういう行為についても、妄想についても。


「時代とは一瞬の群れということを自覚するとき、地球は丸い」

「自己過大視」とか「自意識過剰」とかいう言葉が僕が昔から嫌いなのは、その言葉を使う人が常に得意そうだからだ。
その言葉が、他人が言っているのを真似しただけのものだ、ということには眼をつぶろう。
真似やパクリなくして、他者の理解を得られる発言はできないからだ。
ただ、そのことを自覚できていない、ということは少々問題だ。
「自己過大視」や「自意識過剰」が非難されるべき理由を少しでも考えたことがあるのだろうか、と思う。
あ、説教を始めてしまった。せっかくだから続ける。
シオランアフォリズム集の中で、「『自分は、地球の表面を何十億と匍いまわっている生き物の一匹だ。それ以上の何者でもない』という陳腐な呪文は、どんなたぐいの結論をも、いかなる振舞い、いかなる行為をも正当化する」と言っていて、これこそが、自己過大視と自意識過剰を注意深く排除した考えの行き先だと思った。
非難されるべきだった自己過大視と自意識過剰とをやめたとき、人は、自分が犯罪者となることをも正当化できるようになる。
自分を特別だと思わないからこそ、思えないからこそ、自分が犯罪者になったところで、他人事として済ませられるようになるわけだ。
たまたま犯罪者となったのが自分だからって、それに特別な罪の意識を感じたからって、そんなのは自意識過剰なだけなんじゃないか、と思うだろう。
感じるだけ無駄、考えるだけ無駄、ということになるからだ。
さて、それを踏まえて、この一首を眺めるとき、僕は、価値判断を抜きとしても、なにか強烈にひっかかるものを感じてしまう。
短歌の力というのは、倫理的な善悪にはよらないものなのだ。


「クレームが六十件を超えしとき<やや騒乱>と報告書に書く」

おそらく職場での話なのだろうけれど、六十件のクレームの激情とその相手を務める人の苦労とが、<やや騒乱>の四文字で報告されるという事情が、なんともおかしい。

「ただひとこと『あっ』と言いさしそのままに止んでしまいぬ館内放送」

気になるよね。こういうの。