猫撫でクラクション

蒸し暑い夜で、私は仕事に追われていた。
部落の法事、息子が突然出した高熱、壊れた建具の修理などが重なり、今日の分の内職のノルマがこなせていなかった。
子猫バスの雌雄鑑別の内職は、一匹二十円である。尻尾の裏側の微妙な毛色の違いで、鑑別する。
私は段ボールの中で蠢き騒ぐ大量の小さな猫バスを一匹一匹、手にとっては裏返し、虫眼鏡で尻尾の裏側を覗き、雄と雌との箱に選り分けていく。


天然物の猫バスを近頃はめっきり見なくなった。街中を走る猫バスや、人家で飼われる猫バスはみな、養殖物である。養殖物は、肉球がかさついており、消しゴム臭い体臭を持っている。
最近、猫バス問題がマスコミを騒がせている。
電車の吊り広告には「あなたは猫バスを、飼うか、乗るか、乗り捨てるか?」という見出しが踊り、猫バスインフルエンザについての記事が新聞の一面を飾り、ワイドショーでは野生化した捨て猫バスの凶暴化問題が取り上げられる。
肉食車両である猫バスの扱い方は難しいため、無知で心ない人間が、ペット感覚で購入した猫バスを持て余し、捨ててしまうケースが多発しているのだ。
野良猫バスは、凶暴化し、暴走し、妄想上のバス停を探し回り、共食いをし、無惨な死に方をする。保健所とスクラップ工場に毎日のように大量の壊れた猫バスや、精神を病んだ猫バスが運ばれる。
そういう話を見聞きするたび、「猫バスをなんだと思っているんだ!」と、怒りに震える。自分の仕事に虚しさを覚え、ついつい深酒をしてしまう夜が続く。


妻が家を出てから、もう三ヶ月になる。


「あなたって人は、いつもそうよ。口を開けば、メシ、風呂、猫バス。メシ、風呂、猫バス。私の野鳥の会の話なんて、まるっきり聞いてくれない。もう、うんざりなのよ」


妻の罵声が蘇る。自嘲気味になるたび、この言葉が頭をよぎる。たしかに、猫バスのことで私は頭がいっぱいなのかもしれない。
いつもコロコロをして畳に落ちた猫バスの抜け毛を取ってくれていた妻。コロコロノイローゼだった妻の姿が思い浮かぶ。


内職作業をしている居間と寝室とを隔てる襖が開き、小学三年生になる息子の一也が顔を出す。
「どうした、一也。眠れないのか」と私は尋ねた。
「うん」
「猫バスを数えると眠れるかもしれないよ」私は眼を閉じて、猫バスをゆっくりと数えてみせる。「猫バスが一台、猫バスが二台」
猫バスは、小さい時には一匹二匹、人が乗り込めるサイズになったものは一台二台、と数える慣わしである。
「ボクが数える猫バスは、猫を轢いていくよ、父さん」
「そんなはずはない、猫バスは猫を轢いたりしないし、バスと正面衝突したりもしないよ」
「それは、父さんの数える猫バスだよ。ボクの猫バスは、猫を轢くよ」
「それは、困ったね」
「轢かれた猫は、叫び声を上げるよ。そして、猫バスの奇声クラクションが永遠に鳴り響くんだ、ボクの鼓膜に張り付いてしまったかのように」
「そうか」と私は途方に暮れる。「では、猫バスは数えない方がいいな」
「父さん、子守歌歌ってよ」
「なんだい?」
「子守歌」
「父さんは、子守歌なんて一曲も知らないよ」
「今、作ってよ」
私はしぶしぶ承諾する。一也は寝室へ戻ると、布団を被り、眼を閉じる。私は一也の枕元へ行き、団扇を手に取ると、扇いでやりながら、即興の子守歌を歌ってやる。
「船酔いするモグラはいないよ、溺死する星座はいないよ、産声を上げる墓場はいないよ、猫を轢く猫バスは……」
一也は眼をパッチリと開けて、「猫バスは、出さないで!」と叫ぶ。「猫バスが猫を轢くよ!」